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祇園祭からひも解く、京都の町割りの特徴

京都の夏の風物詩“祇園祭”。7月の1ヶ月間のほぼ毎日、実にさまざまな神事・行事が、八坂神社と氏子区域にて繰り広げられます。(詳しくは八坂神社のHP 参照)
とりわけ、重要無形民俗文化財に指定されている“山鉾行事”は京都の代名詞ともいえる行事であり、そのハイライトでもある山鉾巡行は、山鉾に飾られた華麗な懸装品から“動く美術館”とも言われており、それをお目当てに、国内外から多くの観光客が訪れます。
そんな山鉾ですが、日ごろの保管や組み立てなどの一連の管理運営を、それぞれが立てられる町(=山鉾町)単位で担っており、町名にも山鉾と同じ名前の付いているのをご存じでしょうか 。
今回はこの山鉾町に注目し、そこから京都ならではの町割りや地域の名称についてお話していきたいと思います。

山鉾の建つ町

山鉾に関する詳しい解説は、公益財団法人 祇園祭山鉾連合会のHP を参照いただくとして、まず見ていただくのは、前祭りの山鉾の配置図です。

山14機、鉾9機が組み立てられ、図中にあるように長刀鉾や函谷鉾、蟷螂山や山伏山など、それぞれに名前がついています。
そして、次に紹介するのがこの地域の地図です。

こちらをご覧いただければ、先ほどの配置図で山鉾が記載されている場所と、その地域の町名とが同じになっているのがお分かりいただけると思います。
先にもお伝えしたように、山鉾の管理運営は各山町と鉾町が担っています。山鉾町の皆さんにとって山鉾は、祇園祭の期間だけの存在ではなく、生活の一部として、山鉾と同じ町名を背負いながら伝統を受け継いでいこうという町民の心意気がそこに感じられるのは私だけでしょうか…。

しかし、最近は住民の減少や世代交代の難しさ等の影響もあり、担い手不足が深刻になっているようです。そのため、山鉾巡行の曳き手として、ボランティアとして参加することも可能なようです。参加するには諸条件があるようですが、ご興味のある方はこちらの<京都・祇園祭ボランティア21>のサイトをご参照の上、応募してみてはいかがでしょうか。
また、巡行に先立ち「曳き初め(ひきぞめ)」(=山鉾巡行に向けて、完成した鉾の試運転をするという行事)も行われます。こちらはどなたでも飛び入りで参加できますので、機会があれば参加されてはいかがでしょうか。山鉾町の方々との交流にもつながりますし、祇園祭をまた違った角度から体験できるかもしれません。

町の形=境界線

さて、改めて先ほどの地図で注目いただきたい点がございます。それは、町の境界線の引かれ方です。
先ほどの地図を拡大したのがこちらです。

赤色の鎖線が町名の境界線なのですが、道路と道路で囲まれた街区を横切るように、カクカクと斜めに走っているのがわかります。
街中であれば、道路に四方を囲まれた区画(=街区)を一つのまとまりとして、道路上に境界線が設けられているのが一般的と思われますし、その方が分かり易いようにも感じます。なぜこのような引かれ方をしているのでしょうか。それとも、山鉾町ならではの特徴なのでしょうか?

じつは、下の地図は当社のある上京区界隈のものなのですが、この地域も同じように、町の境界が街区の中に設けられているのがわかります。

実はこのような区画の仕方は、京町家の形成の歴史に由来しているそうです。
公益財団法人京都市景観・まちづくりセンターのHPに京町家について詳しい解説が掲載されているのですが、その中で、「京町家の形成の歴史」として以下のように紹介されています。

京町家の始まりは、平安時代に遡ります。平安京の時代、公家たちによって地方から徴用されてきたものづくりや商いを営んでいた人々が、都市住民として京都に定着するようになり、通りに面した屋敷地を公家たちから買い取り、自らの暮らしの拠点を大路、小路に面した空間に求めました。そこに小屋を造ったのが京町家の始まりのようです。

通りに開いて商売を行う京町家の原型は、やがて軒を連ねて建ち並び、通りは単に、通行の用だけに供する都市施設ではなくなり、会話や様々な活動が営まれる場となりました。

このように、京都では、通りに囲まれた内側にコミュニティを形成した欧米の都市とは異なり、通りを挟んだ両側町というコミュニティを形成していきました。

つまり、この「両側町」という通りを介したコミュニティの形成こそが、京町家の特徴のひとつであり、その形が現代の町割りにも残っているのです。
そのため、同じ京都市内でも比較的新しく開発されたような地域では、街区を基準にした形で町名が区切られています。
下の地図は北区の府立植物園の北側、地下鉄北山駅界隈のものですが、町の境界線が道路に沿って引かれているのがよくわかります。

町の呼び方

このように、通りを基準に発展してきた京都の市街地だからでしょうか、その住所の表記の仕方にも独特なルールがあるのをご存じでしょうか。それは「通り名」というものです。
いわゆる「上ル(あがる)、下ル(さがる)」と「東入ル(ひがしいる)、西入ル(にしいる)」です。
「上ル」は北へ向かうこと、「下ル」は南へ向かうことで、「東入ル」、「西入ル」は文字通り東と西へ向かうこと指します。
これは、明治22年(1889年)の京都府告示第24号[2]に基づくもので、この告示では住所の記載書式を「京都市何区何通何小路何町上ル下ル又ハ東入西入何町何番戸」と定めています。
この方式では、まず、家屋、ビルなどが直接面している通りの名を先に記し、その後に直近で交差する通りの名を「通」部分を省略して付記し、「上ル(上る)」(あがる)、「下ル(下る)」(さがる)、「東入」(ひがしいる)、「西入」(にしいる)等と表記します。
例えば、
・A通B西入= 建物はA通(東西方向の道)に面しており、B通(南北方向の道)との交差点から西に入った地点にある。
・C通D上る= 建物はC通(南北方向の道)に面しており、D通(東西方向の道)との交差点から北に入った地点にある。
といった具合です。
当社のある鏡石町も「京都市上京区一条通大宮西入鏡石町」と表記されます。
「東西に走る“一条通”と南北に走る“大宮通”の交差点を、一条通沿いに西に進んだところの鏡石町」という指示になっているのです。
郵便物を送る上では「上京区鏡石町」で全く問題ないのですが、地元の方にとっては通りを基準に示した方が慣れており、伝わり易いのが現状です。
また、京都市内には、同一の町名が同じ行政区内に複数ある(しかも離れた場所に)場合や、同じ町内なのに通りを挟んで全く異なる郵便番号が割り当てられている場合がよくあります。
例えば、「梅屋町」という町名は上京区にも中京区にも存在しており、さらに中京区の梅屋町は、通りによる表記によって郵便番号も異なります。(下表参照)

京都市内には、他にも同様の町名が存在しますので、何かをお届けする際にはお気を付けいただきたいと思います。

京都のまちにとって通りは大切な存在

いかがでしたでしょうか。
祇園祭・山鉾の話から、京都ならではの町の区分け、通り名まで話が展開してしまいました。そして、通りは単なる人やクルマの通り道でなく、かつてはコミュニティやビジネスにとって大切なインフラであり、移動する際の座標軸であったことは興味深いものです。しかし、近年の住宅建築は、防犯やプライバシー保護の観点から、建物と通りとを分断することが普通になってしまいました。これには、少し寂しさを感じることがあります。

『まるたけえびす(丸竹夷)』(=京都市の中心部を東西に横切る複数の通りの名前を組み込んだ「京都の通り名」歌)を歌いながら(笑)、“通り名で場所が把握できるようになれば、立派な京都人!”といえるのかどうかはわかりませんが、通りを中心にしたかつての京都のまちづくりの痕跡はまだまだ各所で見つけることができます。時にはそのような古の都の姿を想像しながらまち歩きをしてみるのも良いかもしれません。

小林工務店は元治元年創業以来、代々地元京都に根差してきた会社です。建築・不動産・相続でお困りごとがございましたら、是非当社までご相談ください。
「通りに開いた住まいづくりをしたい」といったご要望も大歓迎です!

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